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東日本大震災から1年を前に産経新聞が募った読者の手紙「私の3・11」。被災地をはじめ全国、海外から多くの手紙やメール、ファクスをいただきました。「津波が襲いかかってきた」「なぜ自分は生き延びたのか」「人の絆に涙が止まらなかった」…。3回にわたり紹介します。
■「津波が来る」…暗闇を歩き続けた 宮城県多賀城市、岩佐登子さん(63) そのとき私は宮城県塩釜市新浜町にいた。「津波が来る、各自避難せよ」と言われても避難場所すら分からない。幸いにも帰るべき道順なら知っているという方がいて、一緒なら何とかなるでしょうとばかりに2人で歩き出した。 しかし、雪の舞うモノトーンの世界、車のタイヤの跡さえも雪に消されてしまい、目印になるようなものさえ確認できない。 それでも何とか彼女の目的場所まで同行させてもらい、その後はひたすら教えられたとおりに歩き続けて東北線塩釜駅までたどり着いたが、夕闇の中ではその建物さえも駅舎とは気づけないような状態だった。幸いにもタクシーが構内に入ってきたので自宅近くの行けるところまでということで乗車した。 笠神新橋付近で通行止めとなり、暗闇のなかを歩き、気づくと指定避難場所の天真小学校にたどり着けた。 その夜は明かりも暖房も心細い中で携帯ラジオを聴きながら夜を過ごした。 「窓から見える」 人声が気になり、2階教室の窓から外を見たとき火柱が見えた。石油コンビナート火災の炎が闇夜に異様な明るさをもたらしていた。 一夜が明け、校庭に給水車が止まり、それぞれに連絡をとろうとしたが無駄だった。電話は通じない、携帯電話は電池切れ。それでも、「笠神新橋が通行許可になったよ」と被災者同士で帰宅ができるようになるまでの時間が来るのを待ちながら助け合いの言葉をかけあった。 私は昼頃には帰宅できたが、その惨状には涙もでなかった。 砂押川の堤防は自宅近くの箇所も決壊し、道路は片側部分がえぐり取られていた。 家族は2階に避難できていたので無事だったが、1階部分はすべての部屋が塩害の泥に覆われていた。床下収納庫はふきあげられていて、そこからも泥水がふきあげたという。 地震で家具は倒れ、移動し落下して泥のなか。電気は切れ、暖房もない。灯油もないのでストーブも使えない。風呂の中まで泥が入ったので、くみ置きの水もなくトイレも使えない。それでも大規模半壊とはいえ、住めないわけでもない家があり、家族も無事であっただけでも幸運だといわれた。 そのような日から1年近くたっているのにまだその悪夢の覚めやらない気がしないでもない。 それでも去年棚から落ちて茎がいたんだ花につぼみがついた。私たちを慰めているのかのように花がほころびだした。 ■転職面接の帰り道 温かい心に触れた 東京都杉並区、菊川真澄さん(53) 忘れもしません。私は大地震があったその日、ある会社の面接を受けていたのです。勤めていた会社がだめになり転職活動中でした。風邪をひいて体調が良くなかったのですが、無理をして出かけました。 激しい揺れを感じたのは面接を終えてビルを出たときです。場所は銀座。人がたくさん出てきて通りは大変な人混み。電車は止まっているというので歩いて帝国ホテルに向かいました。タクシーで帰宅しようと考えたのです。 ところが長蛇の列! 仕方がないので待つことにしました。けれど気分が悪くなってきて座り込んでしまいました。どうやら熱が出てきたようです。 すると後ろにいた男性が「この人、先に乗せてあげて! 病気なんだ!」と大声で叫んだのです。そして列の一番前へ連れて行ってくれました。ちょうど初老のサラリーマンふうの男性がタクシーに乗り込むところでした。 「家はどちら? 杉並なら近いから一緒にどうぞ」と言ってくれたので同乗させてもらうことに。後部座席で横にならせてもらいました。「え?就職活動中?…大変だね」。道が混んでいて家に着くのに数時間かかりました。その男性はお金を出しても受け取ることなく行ってしまいました。お名前をうかがっておけばよかった…後でひどく後悔しました。 その日受けた会社は不採用でしたが、今は他の会社に就職が決まって元気に働いています。 ■羽田空港「一緒に泊まりませんか」 韓国ソウル市、山本裕子さん(34) 3月11日は羽田空港で仕事をしていて空港内で避難することになりました。そこで困っている女性を見かけました。アツコ・ドーキンさんという、母が危篤で米サンフランシスコから30年ぶりに帰国し、あす高松に帰るという方でした。 携帯電話の電池が切れてしまい、アメリカや日本の家族に連絡が取れずにいたので、公衆電話のかけ方を教えました。 彼女から「ホテルを予約しているので一緒に泊まりませんか」と温かい言葉をかけてもらいました。彼女の優しさに甘えて泊まらせていただきました。翌日、飛行機も再開し、彼女は松山行きに搭乗できました。 1週間後、彼女から連絡があり、病院に到着したときにはお母様はもう意識がない状態で、しばらくしてお亡くなりになったそうです。 震災からもう1年がたとうとしています。その後、彼女はお元気なのかいつも気になっています。そして、あの状況の中で私に温かい言葉をかけてくださったことに感謝しています。人の温かさを彼女から教えていただきました。 ■思いは東北へ飛んでいった 大阪府藤井寺市、草村克彦さん(55) あの日、私は奈良県におひなさまを見に行っていました。帰宅すると信じられない光景がテレビで流れていました。 原子力関係の仕事に長く携わったため東北に多くの友人や知人がいました。「一番困っているところに、たとえわずかでも確実に届く募金にしたい」と知人に訴え、4月29日に奈良県五條市の民俗資料館でのチャリティーライブ開催にこぎ着けました。 募金先は三陸鉄道に決めました。汽車の走る姿は子供からお年寄りまできっと地元を元気づけると信じたからです。会場入り口に募金箱を置き、音楽家がボランティアで歌いました。不便な場所のため決して多くの観客ではありませんでしたが、思いは東北に飛んでいったと思います。 福島県いわき市の知人は「ありがとうね。遠いところで応援してくれている人がいることをうれしく思いますよ。俺たちも頑張らないと」と言っていました。 これからもおひなさまを見るたびに、あの日のことを思い出すでしょうし、逆に忘れてはいけないと思います。そして、春は必ず来るということも。 ■魂を呼び起こしたコンサート 沖縄県浦添市、ゴードン佳子さん(68) 目を覆いたくなるつらく悲しい場面に涙が止まらなかった。主人とテレビの画面を追いながら、自分たちに何かできないかと語り合う日々が続いた。 もんもんとした模索の中から、私たちが被災地の人たちから逆に、強い勇気とぶれない未来への神髄を植えつけられた気がした。 ジャズトランペット奏者の主人は被災地の若者たちを閉塞感から放たれ、自由な表現ができるジャズ音楽を通して前進してほしいと強く願った。多くの賛同者が得られ、昨年11月23日、スペシャル・ジャズコンサートが実現した。 東北大学モダンジャズ研究会の学生7人を沖縄に招待し、沖縄の琉球大学ジャズ研究会の学生9人と東京からプロのジャズメンによるセッション。演奏者と観客が一体になり魂を呼び起こしたコンサートだった。私たちにとってこの上ない至福の時間であった。 ■大渋滞…10分の帰路が1時間 宇都宮市、中村好美さん(29) あの日、会社にいました。会社から帰宅許可が出てやっと帰れると思ったら道路は大渋滞。10分で家へ帰れるところ、1時間かけて帰りました。 家へ着くと、中はぐちゃぐちゃ。被害の少ない姉の住むアパートに避難しましたが、深夜も揺れが続き全然眠れませんでした。 今は新しい家に住んでいます。2回も家を建ててくれた父、何度も引っ越しを経験してきた母に感謝しています。でも、なんだか心が晴れません。 前を向いて生きていくしかないと感じています。 ■「孫の家まで乗せてください」 大阪府茨木市、山崎シヅエさん(88) 千葉県に嫁いだ孫から、水戸市の偕楽園へ梅見物に誘われ、3月10日は日立市の鵜の岬国民宿舎に泊まり、11日の昼食後、JR勝田駅をすぎたころ、地震にあった。 車に乗っておられた人に「どうか千葉県我孫子の孫の家の近くまで乗せてください」と頼み回り、やっと親切な方に出会って送ってくださった。 電車の動いている間にと、大阪まで帰宅することができ、その感動はただ感謝のみ。帰宅後、津波の恐ろしさをテレビで見て、お世話になった国民宿舎の皆さん方、いかがだったか、遥かきれいな海を眺めていたことを思い出し、どうぞご無事であれかしと祈りながら、胸がいっぱいになった。 ■垣間見えた情景 千葉県流山市、畑耕逸さん(58) 風景写真を撮りに来たというのに被災された人と同じ景色を前にして、さぞかし怖かったであろう、寒かったであろう、と心の情景が垣間見えた気がしたのは不思議でさえあった。 (この記事は社会(産経新聞)から引用させて頂きました)
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