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女性の病気について 20歳、もちろん女です。 今日トイレに行くと生理でも無いの...
CATEGORY : [未選択] 2012/03/15 00 : 57
女性の病気について

20歳、もちろん女です。

今日トイレに行くと生理でも無いのに、おりものの中に血が混じっていました。

あと、2年ほど前からあそこがかゆく、白いカスのようなものが出ます。

(下品な話ですが、男性がよく「チ●カス!」って言うのを聞き

女性でもカスのようなものが出るのかなぁ・・と今までは放置していたのですが・・・)



不安で調べると、どうもカンジダの症状と似ていて不安です。

おりもののニオイは普通で、異常な臭さはありません。

色も白や透明以外は出ません。

が、やっぱりどうしても不安です。



やっぱり病院で診てもらった方がいいでしょうか・・・?

アドバイス下さい(´・ω・`)





- 回答 -

おりものに血が混じってるというのは、排卵に伴ったものかもしれません。私もおりものに少量の血が混じったことがあり、診察を受けたらそう言われました。人によりますが、排卵時に出血を伴ったり、痛みを伴うことがあります。



かゆみと白いカスのようなものからだとカンジタの可能性があると思います。カンジタの場合、おりものが白くカッテージチーズのような状態になりますが、時間が経ったものならカスのようにも見えるかも?



文面から私が推測できるのは以上です。



カンジタは元々持っているカビの仲間です。風邪などで抗生物質を飲んだ時にカンジタを発症することがよくありますし、再発しやすいです。恥ずかしいことではないので、婦人科でちゃんと診察を受けてください。



(この記事は「Yahoo知恵袋」より引用させて頂きました)

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こめんと [ 0 ] 
大震災・1年:道内の備えは?/2 避難所 /北海道
CATEGORY : [未選択] 2012/03/14 13 : 01
 ◇8割超が指定見直し トイレ、仕切り…被災者の目線で

 白糠町が指定する災害避難所の中で、最も規模が大きい町総合体育館。451人を収容できる鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物だが、東日本大震災の当日、近くの女性(68)は、ここに目もくれず高台の公園に向かった。「自宅と標高が変わらないので意味がない」と思ったからだ。

 体育館は海岸まで約1キロ離れているが、標高は7メートル以下。「以前から住民は危ないと思っていた」と町内でホテルを経営する野田弘さん(70)。それを裏付けるように、女性が着いた高台は、避難してきた車で混雑していた。だが、吹きさらしの場所では暖も取れない。町職員の呼び掛けで、午後6時半までに全員が公園を離れた。

 結局、周辺で唯一の避難施設である体育館では、300人以上が一夜を明かした。ところが町は震災の3カ月後、体育館など3カ所を津波避難所の指定から外した。道の浸水予測では危険区域に入っていないが、道内太平洋岸を大津波が襲うとされる「500年間隔地震」が来た場合、標高10メートル以下の施設は危険と判断したためだ。

 当時、体育館には住民だけでなく、JR白糠駅で緊急停車し、JR北海道に誘導されてきた特急列車の乗客約200人がいた。この避難は危険だったのか--。町の担当者は「体育館が危ないというわけではなく、より慎重に判断した結果」とだけ説明する。

  ◇    ◇

 毎日新聞が道内沿岸81自治体に行ったアンケートでは、83%の67市町村が震災後に避難所の立地や指定の見直しを既にしたか、今後予定していると答えた。白糠町のほか様似町や松前町も、標高の低い避難所の指定を取り消し、一定の高さ以上の場所や施設を追加。稚内市は老朽化した施設を今後除外する予定だ。

 斜里町は昨年7月、高齢者や土地勘のない観光客も素早く避難できるように海岸付近のホテル3軒と協定を結び、津波避難ビルに指定した。町企画総務課は「観光客の避難は地域の課題。ホテルなら地理に不案内な人でも行ける」と語る。

 一方で、道の浸水予測図の完成を待ち、足踏みしている自治体も少なくない。太平洋側は月内にも改訂版が出来上がる予定だが、日本海側とオホーツク海側は完成の見通しが立っていない。「道の予測図が出てから見直す」と共和町。逆に、標高20メートル以上の施設を津波避難所に指定することを決めた利尻町と小平町は「道の予測図ができるまで何もしないわけにはいかない」と口をそろえる。

  ◇    ◇

 ピーク時は避難者が約47万人に達した昨年の震災では、避難所に来てから体調を崩したり、死亡する被災者もいた。避難が長期化しても衛生的な環境を守り、少しでも快適に過ごせる工夫を、自治体は模索する。

 釧路市は「マンホールトイレ」2セットを備蓄する。マンホールの上に置いて下水管に直接汚物を流すことができ、くみ取りの必要がない。下水管が壊れたら使用できない弱点もあるが、長期間使える利点がある。

 奥尻町は非常時に地元の建設業5社から仮設トイレを借りて対応。浜中町は備蓄品に災害用トイレ袋を1500枚追加した。被災地ではトイレの回数を減らすために水分を控えて病気になる人も出ただけに、各自治体の担当者は「避難生活上のトイレの問題は生死に直結する」と真剣だ。

 パーティション(間仕切り)5セットを購入する函館市、生理用品や紙おむつの備蓄を始める稚内市など、避難者の目線に立った対策は徐々に広がりつつある。防災・減災を研究する北海道大の加賀屋誠一教授(社会基盤計画学)は「避難場所を指定するだけでは意味がない。住民がきちんと避難所までたどり付けるシステムと、一時的にでもそこで生きていくための備えが必要だ」と指摘する。【円谷美晶】=つづく



3月14日朝刊





(この記事は北海道(毎日新聞)から引用させて頂きました)



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こめんと [ 0 ] 
子宮内膜症と診断されているのですが・・・
CATEGORY : [未選択] 2012/03/13 01 : 10
初めて生命保険を契約しようと考えています。



はずせない契約内容として、「女性特有の病気に対する保障」です。

5年前に子宮内膜症と診断されたので、子宮の病気に不安を持っているからです。



いろいろ調べて、ある会社を選択し、電話してみました。

そのときに病気の有無を聞かれました。



実は子宮内膜症だと診断さたのは5年前で、

1年ほど治療しましたがよくならず、結局「それほど重度のものではないので、妊娠さえすればなおるから、子作りをがんばりなさい。

ただし、1年に1回は子宮ガン検診を受けること」と医師からいわれ、

現在は病院には通っていません。

(1年に1回のガン検診でも異常がないため)



しかし、このことを生命保険の担当者に伝えたところ、

「1年に1回の診断が必要」といわれたなら、

”女性特有の病気”に対する保障をつけることはできない、といわれました。



この件があり、また再度生命保険会社を調べているのですが・・・。



この話を母にしたところ、

「今は病院から治療の必要がないとされて治療していないんだし、

わざわざ定期検査のことまで言わなくていいんじゃないのか?」

といわれました。



私のような病状の場合、それを担当者につげないで生命保険に入ることはまずいことなのでしょうか?

病院にいっても、「治療は妊娠するようにがんばること」といわれるだけなので、

自分ではあまり病気であるという意識がないのです。

(この記事は「教えてgoo!」より引用させて頂きました。)



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こめんと [ 0 ] 
女性しかならない病気ってどんなのがありますか? わかるだけたくさん教えて下さい。
CATEGORY : [未選択] 2012/03/12 22 : 06
女性しかならない病気ってどんなのがありますか?

わかるだけたくさん教えて下さい。





- 回答 -

子宮と卵巣、卵管、膣は女性にしかないので、

これらの名前がつく病気はすべて女性しかかかりません。

子宮筋腫、子宮ガン、子宮頚ガン、卵巣ガン、卵巣のう腫、子宮外妊娠、膣炎、などなど。

甲状腺の病気や、乳ガン、更年期障害は数は少なくても男性もかかるから、女性だけとはいえません。



(この記事は「Yahoo知恵袋」より引用させて頂きました)



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こめんと [ 0 ] 
「津波が来る」…暗闇を歩き続けた 読者からの手紙
CATEGORY : [未選択] 2012/03/11 16 : 17
 東日本大震災から1年を前に産経新聞が募った読者の手紙「私の3・11」。被災地をはじめ全国、海外から多くの手紙やメール、ファクスをいただきました。「津波が襲いかかってきた」「なぜ自分は生き延びたのか」「人の絆に涙が止まらなかった」…。3回にわたり紹介します。



 ■「津波が来る」…暗闇を歩き続けた 宮城県多賀城市、岩佐登子さん(63)



 そのとき私は宮城県塩釜市新浜町にいた。「津波が来る、各自避難せよ」と言われても避難場所すら分からない。幸いにも帰るべき道順なら知っているという方がいて、一緒なら何とかなるでしょうとばかりに2人で歩き出した。



 しかし、雪の舞うモノトーンの世界、車のタイヤの跡さえも雪に消されてしまい、目印になるようなものさえ確認できない。



 それでも何とか彼女の目的場所まで同行させてもらい、その後はひたすら教えられたとおりに歩き続けて東北線塩釜駅までたどり着いたが、夕闇の中ではその建物さえも駅舎とは気づけないような状態だった。幸いにもタクシーが構内に入ってきたので自宅近くの行けるところまでということで乗車した。



 笠神新橋付近で通行止めとなり、暗闇のなかを歩き、気づくと指定避難場所の天真小学校にたどり着けた。



 その夜は明かりも暖房も心細い中で携帯ラジオを聴きながら夜を過ごした。



 「窓から見える」



 人声が気になり、2階教室の窓から外を見たとき火柱が見えた。石油コンビナート火災の炎が闇夜に異様な明るさをもたらしていた。



 一夜が明け、校庭に給水車が止まり、それぞれに連絡をとろうとしたが無駄だった。電話は通じない、携帯電話は電池切れ。それでも、「笠神新橋が通行許可になったよ」と被災者同士で帰宅ができるようになるまでの時間が来るのを待ちながら助け合いの言葉をかけあった。



 私は昼頃には帰宅できたが、その惨状には涙もでなかった。



 砂押川の堤防は自宅近くの箇所も決壊し、道路は片側部分がえぐり取られていた。



 家族は2階に避難できていたので無事だったが、1階部分はすべての部屋が塩害の泥に覆われていた。床下収納庫はふきあげられていて、そこからも泥水がふきあげたという。



 地震で家具は倒れ、移動し落下して泥のなか。電気は切れ、暖房もない。灯油もないのでストーブも使えない。風呂の中まで泥が入ったので、くみ置きの水もなくトイレも使えない。それでも大規模半壊とはいえ、住めないわけでもない家があり、家族も無事であっただけでも幸運だといわれた。



 そのような日から1年近くたっているのにまだその悪夢の覚めやらない気がしないでもない。



 それでも去年棚から落ちて茎がいたんだ花につぼみがついた。私たちを慰めているのかのように花がほころびだした。



 ■転職面接の帰り道 温かい心に触れた 東京都杉並区、菊川真澄さん(53)



 忘れもしません。私は大地震があったその日、ある会社の面接を受けていたのです。勤めていた会社がだめになり転職活動中でした。風邪をひいて体調が良くなかったのですが、無理をして出かけました。



 激しい揺れを感じたのは面接を終えてビルを出たときです。場所は銀座。人がたくさん出てきて通りは大変な人混み。電車は止まっているというので歩いて帝国ホテルに向かいました。タクシーで帰宅しようと考えたのです。



 ところが長蛇の列! 仕方がないので待つことにしました。けれど気分が悪くなってきて座り込んでしまいました。どうやら熱が出てきたようです。



 すると後ろにいた男性が「この人、先に乗せてあげて! 病気なんだ!」と大声で叫んだのです。そして列の一番前へ連れて行ってくれました。ちょうど初老のサラリーマンふうの男性がタクシーに乗り込むところでした。



 「家はどちら? 杉並なら近いから一緒にどうぞ」と言ってくれたので同乗させてもらうことに。後部座席で横にならせてもらいました。「え?就職活動中?…大変だね」。道が混んでいて家に着くのに数時間かかりました。その男性はお金を出しても受け取ることなく行ってしまいました。お名前をうかがっておけばよかった…後でひどく後悔しました。



 その日受けた会社は不採用でしたが、今は他の会社に就職が決まって元気に働いています。



 ■羽田空港「一緒に泊まりませんか」 韓国ソウル市、山本裕子さん(34)



 3月11日は羽田空港で仕事をしていて空港内で避難することになりました。そこで困っている女性を見かけました。アツコ・ドーキンさんという、母が危篤で米サンフランシスコから30年ぶりに帰国し、あす高松に帰るという方でした。



 携帯電話の電池が切れてしまい、アメリカや日本の家族に連絡が取れずにいたので、公衆電話のかけ方を教えました。



 彼女から「ホテルを予約しているので一緒に泊まりませんか」と温かい言葉をかけてもらいました。彼女の優しさに甘えて泊まらせていただきました。翌日、飛行機も再開し、彼女は松山行きに搭乗できました。



 1週間後、彼女から連絡があり、病院に到着したときにはお母様はもう意識がない状態で、しばらくしてお亡くなりになったそうです。



 震災からもう1年がたとうとしています。その後、彼女はお元気なのかいつも気になっています。そして、あの状況の中で私に温かい言葉をかけてくださったことに感謝しています。人の温かさを彼女から教えていただきました。



 ■思いは東北へ飛んでいった 大阪府藤井寺市、草村克彦さん(55)



 あの日、私は奈良県におひなさまを見に行っていました。帰宅すると信じられない光景がテレビで流れていました。



 原子力関係の仕事に長く携わったため東北に多くの友人や知人がいました。「一番困っているところに、たとえわずかでも確実に届く募金にしたい」と知人に訴え、4月29日に奈良県五條市の民俗資料館でのチャリティーライブ開催にこぎ着けました。



 募金先は三陸鉄道に決めました。汽車の走る姿は子供からお年寄りまできっと地元を元気づけると信じたからです。会場入り口に募金箱を置き、音楽家がボランティアで歌いました。不便な場所のため決して多くの観客ではありませんでしたが、思いは東北に飛んでいったと思います。



 福島県いわき市の知人は「ありがとうね。遠いところで応援してくれている人がいることをうれしく思いますよ。俺たちも頑張らないと」と言っていました。



 これからもおひなさまを見るたびに、あの日のことを思い出すでしょうし、逆に忘れてはいけないと思います。そして、春は必ず来るということも。



 ■魂を呼び起こしたコンサート 沖縄県浦添市、ゴードン佳子さん(68)



 目を覆いたくなるつらく悲しい場面に涙が止まらなかった。主人とテレビの画面を追いながら、自分たちに何かできないかと語り合う日々が続いた。



 もんもんとした模索の中から、私たちが被災地の人たちから逆に、強い勇気とぶれない未来への神髄を植えつけられた気がした。



 ジャズトランペット奏者の主人は被災地の若者たちを閉塞感から放たれ、自由な表現ができるジャズ音楽を通して前進してほしいと強く願った。多くの賛同者が得られ、昨年11月23日、スペシャル・ジャズコンサートが実現した。



 東北大学モダンジャズ研究会の学生7人を沖縄に招待し、沖縄の琉球大学ジャズ研究会の学生9人と東京からプロのジャズメンによるセッション。演奏者と観客が一体になり魂を呼び起こしたコンサートだった。私たちにとってこの上ない至福の時間であった。



 ■大渋滞…10分の帰路が1時間 宇都宮市、中村好美さん(29)



 あの日、会社にいました。会社から帰宅許可が出てやっと帰れると思ったら道路は大渋滞。10分で家へ帰れるところ、1時間かけて帰りました。



 家へ着くと、中はぐちゃぐちゃ。被害の少ない姉の住むアパートに避難しましたが、深夜も揺れが続き全然眠れませんでした。



 今は新しい家に住んでいます。2回も家を建ててくれた父、何度も引っ越しを経験してきた母に感謝しています。でも、なんだか心が晴れません。



 前を向いて生きていくしかないと感じています。



 ■「孫の家まで乗せてください」 大阪府茨木市、山崎シヅエさん(88)



 千葉県に嫁いだ孫から、水戸市の偕楽園へ梅見物に誘われ、3月10日は日立市の鵜の岬国民宿舎に泊まり、11日の昼食後、JR勝田駅をすぎたころ、地震にあった。



 車に乗っておられた人に「どうか千葉県我孫子の孫の家の近くまで乗せてください」と頼み回り、やっと親切な方に出会って送ってくださった。



 電車の動いている間にと、大阪まで帰宅することができ、その感動はただ感謝のみ。帰宅後、津波の恐ろしさをテレビで見て、お世話になった国民宿舎の皆さん方、いかがだったか、遥かきれいな海を眺めていたことを思い出し、どうぞご無事であれかしと祈りながら、胸がいっぱいになった。



 ■垣間見えた情景 千葉県流山市、畑耕逸さん(58)



 風景写真を撮りに来たというのに被災された人と同じ景色を前にして、さぞかし怖かったであろう、寒かったであろう、と心の情景が垣間見えた気がしたのは不思議でさえあった。





(この記事は社会(産経新聞)から引用させて頂きました)



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